貯水槽の上で九死に一生を得た長い一日
― 東日本大震災が発生した当時経験したことを
教えてください
あの日は海から100mくらいのところにあった商工会の事務所にいて3月15日の確定申告の締切日を4日後に控え対応に追われていました。そしたらいきなり「世の中おわっか」という、今まで体験したことがない大きな地震がきました。外を見てみると電柱はメトロノームのようにグワングワン揺れていて、周囲の民家の壁や屋根が全部地震で落ちていました。商工会の建物は無事でしたが、まずは女性職員を高台にある病院へ避難させ、私と男性職員は残りました。商工会の建物は周囲より少し高い建物なので町から津波が来た際の避難所に指定されていたので、地域の人が来たとき誰もいなかったら困ってしまうからです。地震の揺れが続く中、防災無線で「3mの津波」と知らせあり、間髪いれずに「6m」と変わりました。
それまでは女性の声だったのですが、突然「逃げろ!逃げろ!」と男性の叫ぶ声があり、ブッツリと防災無線が切れ、それ以降の放送はありませんでした。大津波警報というのをはじめて聞いたし、いきなり男性が叫ぶなんて…。これはただ事じゃないと改めて感じました。
そこからは何の情報も無く、どこで何が起きているかわかりませんでしたが、急いで屋上の貯水槽の上まで登りました。大きな津波がきて、車や家が流され町がぶっ壊されている様子をただ見ていました。いよいよ自分たちの足元50cmくらいまで水がきて絶望的な状況で「これはもうダメだな」と覚悟を決め、一緒にいた人たちに「来世で会いましょう」と話しました。しかし、その時津波は引き潮に転じて一気に水がひきはじめました。引き潮と同時にものすごい勢いで家や車も流されてきましたが、運良くぶつかりませんでした。
その後は一番損傷が少なかった女子トイレで男4人が抱き合いながら寒さをしのぎ、津波がきたら屋上まで移動を何度も行いました。その日の夜は、大きな津波の音と「助けてー!」と叫ぶ声が聞こえていましたが、その声が徐々に聞こえなくなっていくんですよね。でも、自分たちにはどうにもできませんでした。
次の日の朝、普段なら数分で歩いていける高台の病院まで数時間かけたどり着き、やっと生きた心地がしました。生き抜いたという喜びと町がなくなったという絶望が同時にきて涙が出ました。家族は幸い無事で私の姿を見て飛び跳ねて喜ぶ子どもたちに「本当に生きてくれてありがとう」と伝えました。あの日は雪が降っていて寒かったのを覚えています。
国から『復興のトップランナー』と評価される女川町
― 思いれ深い出来事を教えてください。
女川町を大きく動かしていくキッカケになった『女川町復興連絡協議会(FRK)』の設立です。2011年4月1日に水産・観光・商工の事業者が垣根を越えた『女川を憂う気持ちがある生き残った人たち』がクチコミで集まり「この女川をどうする?みんななくなったぞ」「みんなでやれるか?」「やる!」という決起集会を行いました。震災発生から約1カ月後の4月19日に後々『民意の象徴』と呼ばれる『女川町復興連絡協議会(FRK)』を未だ家族が見つかっていない状態のメンバー含め約50名で設立しました。これが女川町の復興の起点となりました。また、この時FRK高橋会長から「今回の町づくりは30代、40代に任せる」「この復興には長い時間がかかる。復興した町の中心となる30代や40代が責任もってやれ。もし困難になれば、矢面にも立つし、時には殿にもなる」という力強い言葉もいただきました。
私がFRKの議論切り回しを担当させてもらい1年弱くらいの時間をかけて女川町の復興について中・長期的復興の議論を行い続けました。以前であれば、商工会は商工業のことだけを考えれば良かったのですが、町が一刻も早く立ち直るためには自分のテリトリーのことを考えるのではなく、地域住民のことを最優先に考えることが重要でした。
議論と同時に活動も行い、まずは避難所暮らしの地域住民の不便を解消することでした。物資の提供や配布の手伝いなど民間でできることは民間で行い、住民が困っていることをヒアリング結果から提案するなど民間だけでは難しいことは行政へ提案を行いました。行政の手が届かないところは民間が行うといった、行政と民間が手を組んで町の復興に一丸となって取り組んでいきました。
このFRKがあったことで『町づくりワーキング』『オープン学会』などが様々なコトが誕生し、2015年の女川駅再開による石巻線前線復旧、商店街オープンなど今の女川の復興につながっています。
女川は意思決定が早く復興スピードが早い町ということで『復興のトップランナー』と呼ばれていますが、官民が一丸となり全員が同じ方向を見て我武者羅に取り組んできた結果です。町のため、つまり次の世代である子どもたちのためなんですよね。
『生みの苦しみ』から『育てる苦しみ』へ
― 今後やりたいことを教えてください
まだまだ仮設住宅で暮らしている方が多く、みんなが通常の住居で暮らせる状態になるのはあと3年くらいかかるので全住民が平穏な生活を取り戻した後。つまり復興が終わった時が町のスタートだと考えています。そうした『生みの苦しみ』から『育てる苦しみ』にも力を入れていきたいです。例えば、女川の駅や商店街は完成したのですが、これでおしまいではありません。立派な建物があっても魂が入っていないのはダメで、いかに魂を入れるかという『運営』をしっかりやっていきたいです。補助金頼りの町ではなく、自分たちで収益を出し、その収益を社会や地域に還元する。そして、投資も行い更に町に活気を出していきたいですね。
新しい人たちが来る「住み来たる」女川町へ向けて
― みなさんへメッセージをお願いいたします
一番、怖いと感じているのは、復興のトップランナーと言われることにより「あとは女川町の人たちだけで復興できる」と思われて、外から人が来なくなってしまうことです。女川ファンには末永いおつき合いをしてほしいと考えています。
FRKのテーマで『住み残る』『住み戻る』『住み来たる』町を掲げていたのですが、これからは『住み来たる』人を増やしていきたいと考えています。これがとても重要で今の町民人口は震災前の4割減の約6400人。復興住宅が完成すれば7000人くらいまで戻るのではと考えていますが、割合的に高齢の方が多く、人口ピラミッドの構成が少しでも変わるよう、新たな人たちに来てもらって、新しいことをやってもらって女川を面白い町にしていきたいです。
2015年三陸自動車道に石巻女川ICが開通し、今年中に仙台から鉄道の直通列車も開通予定で東京まで3時間と女川がとても近くなります。他にも女川でつながってもらうために移住者向けの『女川フューチャーセンターCamass』を昨年立ち上るなど、来やすくなるインフラと土壌を用意しました。
「女川の人たちは熱いね。まとまり感あるね」って言われるのですが、理由は何でも良いから、まずはみなさんに一度来てもらって、女川の人の良さ、悪さを分かってもらいたいです。来ないとそういうこともわからないですしね。来て町の人と話すと色々な会話が生まれますよ。
- 取材・撮影
- 櫻庭伸也
- 青山貴博
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女川町商工会 経営指導員、副参事
地域の商工業の活性化に伴う商工会の事業に加え、行政に対してまちづくりを提案する民間団体『女川町復興連絡協議会(FRK)』事務局として、『住み残る、住み戻る、住み来たる』をテーマに、復興プロジェクトを進める。
また、情報の風化を食い止めるため、自身の九死に一生を得た体験と女川町の現状について語り続ける。