2011年3月11日、東北地方を襲った東日本大震災。
当時の災害の記憶を風化させず、あの経験を糧として未来につないでいくために、現在の被災地の状況を再確認し、私たちができることを考えます。
※こちらの記事は2016年2月24~26日にかけて取材した内容となります
現在の被災地の状況とは? 復興支援活動をされている4名の方にインタビューを通じて現在の被災地の状況をお聞きしました。5年経ったことでどんな変化が起こり、現在の活動へと繋がっているか改めて考えてみます。
「高校生らしく、福島の美味しさ、その農作物を作る人の想いを届けたい」
故郷の福島への強い想いから、福島の高校生が生産者を取材してまとめた情報誌を、その生産者が手掛けた食材と共に定期購読者に年4回送る『高校生が伝えるふくしま食べる通信(通称:こうふく通信)』を立ち上げた管野智香さんが想いを語ってくれました。
福島の重要な産業である農業を元気したい
―『こうふく通信』について教えてください
立ち上げたキッカケは、あすびと福島の半谷さんが主催する「高校生のためのオープンスクール(※)」に参加したことです。最初、友だちに誘われ参加しました。参加前から高い志があったわけでなく、スクールに通い続ける中で自分のやりたいことは「福島の震災復興に関わりたい」と見つけました。
※高校生のためのオープンスクール『半谷・エダヒロ塾』福島の若手人材の育成に取り組む一般社団法人あるあすびと福島の...続きをみる
東日本大震災から1ヶ月後に『福興市(ふっこういち)』のイベントを実施することで多くの笑顔が生まれると同時にそのスピード感などから注目を集めた南三陸町。この土地で生まれ育ち、観光業で盛り上げている及川和人さんにその想いを語っていただきました。
全壊した自宅で太陽とともに生きる生活のはじまり
―東日本大震災が発生した当時のことを教えてください
日頃から『大きな地震があったら津波が来るので避難する』といった訓練をしていたので、当時の事務所は海から100mと近い距離にあり、あまりにも大きく異常な地震だったので「これは大変だ!」と感じて、みんなでいち早く高台へ避難しました。
その後、指定避難場所の中学校の体育館で避難生活を2泊行った後、山を越えて自宅に戻りました。南三陸町の多くの住宅は全壊し、住むことはできなかったのですが、私の自宅は珍しく1階だけの被災で2階は無事でした。当時、電気・ガス・水...続きをみる
壊滅的な被害を受けつつも、驚異的な復興スピードと防潮堤を作らず町全体をかさ上げすることで海と共に生きる道を選ぶなど『民意の象徴』『復興のトップランナー』『地方創生のモデル』と全国から熱い注目を集めている女川町。「あの時に一度死んでいるから」と5年経った今でも毎日休みなく町の復興に関わる青山さんが想いを語ってくれました。
貯水槽の上で九死に一生を得た長い一日
―東日本大震災が発生した当時経験したことを教えてください
あの日は海から100mくらいのところにあった商工会の事務所にいて3月15日の確定申告の締切日を4日後に控え対応に追われていました。そしたらいきなり「世の中おわっか」という、今まで体験したことがない大きな地震がきました。外を見てみると電柱はメトロノームのようにグワングワン揺れていて、周囲の民家の壁や屋根が全部地震で落ちていました。商工会の建物は無事でしたが、まずは女性職員を高台にある病院へ...続きをみる
「かわさん」そんな愛称で子どもたちから親しみを込め呼ばれ、毎日子どもたちに囲まれた生活を送る川井さん。「震災という辛く苦しい試練を乗り越えた子は、誰よりも強く優しくなれるはず」というコラボ・スクールの理念に共感し、女川へ移住してきて早3年が過ぎた川井さんに今感じている想いを語っていただきました。
「彼らと一緒に過ごしたい」と決断。心が揺さぶられた出来事
―どうして東京から女川向学館で働くことになったのか教えてください
千葉県で生まれ育ったのですが、石巻は母親の実家があったので子どもの頃、良く遊びに来ていました。しかし、東日本大震災で思い出がたくさんつまった石巻が大きく変わってしまったのはショックでした。
「東北復興に関わる仕事がやりたい」という思いから、転職活動を行っていたところNPOカタリバの宮城県女川(おながわ)町『コラボ・スクール「女川向学館(こうがくかん)」』の仕事に出会いました。東日本大震災の被害が特に大きかった町のひ...続きをみる